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大正3年に第一次大戦が起りましたが、わが国は直接に戦禍を受けず、むしろ物資補給国として、経済は活性化してきました。 一方、資本主義の発達とともに、社会運動が盛んに行われ、政府としても労働者の福祉対策を考える必要に迫られました。 すでに、明治の末から検討されていたことでしたが、大正3年に当時の大隈内閣が、社会政策のひとつとして、小口の生命保険を官営によって提供する方針を決定し、逓信省が運営に当たることとなりました。 この保険は、外国の簡易保険に範を取ったもので、無診査・月払いの契約で、最高保険金額を250円という低額に限定したのです。 大正時代、保険の有用性を人々に認識させる大きな出来事が2つありました。
スペインかぜでは、大正9年までに22万人を超える犠牲者が出ました。 続いて、大正12年の関東大震災では、東京府・神奈川県を中心とする1府4県下で、焼失・家屋倒壊は約60万戸、支社10万人に及び、大震災による全社の支払い保険金は約5,600件、700万円余にのぼったのです。 スペインかぜや関東大震災に際して、生命保険会社が多額の保険金を支払い、その使命を果たしたことで、生命保険の必要性とその役割が新たに認識されたため、その後生命保険契約高は一段と伸展しました。 大正末期になって、生命保険会社の間で新契約獲得競争にさらに拍車がかかりました。 従来、全国各地の代理店を通じて、生命保険契約の募集を行っていた多くの会社は、その営業組織を強化するため、代理店に所属していた営業職員を会社直属に改めるとともに、会社専属の営業職員制度に変更しました。 この頃から、明治・帝国・日本・第一・千代田生命の5社への契約の集中傾向が強まり、昭和5年には新契約高で54%の占有率、保有契約高で51%を占めるようになりました。 その後も業界戦争は激化し、不正な募集活動によって世間の批判を浴びるようになりました。 また、保有契約の増大に伴い、生命保険会社の資産も増大し、金融機関としての地位も高まり、昭和10年末には全金融機関の10%の資金量を占めるまでなりました。 これは全国銀行、政府の資金運用部に次ぐ規模のものです。 2005.7.24記事 2007.7更新 |
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